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当日の様子 1日目 | 当日の様子 2日目 | 村民プログラム |
参加者の感想 | 報告書(PDF/3.40MB) |
◇
2日間に亘る新庄村での日本再発見塾を無事終え、村外の参加者を送り出した後、新庄村民を対象とした特別プログラムを開催しました。
村内から約140名の村民が集いました。
コーディネータを務めた澁澤運営委員より、「日本再発見塾を開催してくださった主催者の住民の皆さ んに何かお礼を返したい。そのために著名人・有識者の呼びかけ人で何かできないか、という気持ちから、今回初めて『村民のためのプログラム』を開催することになりました。村外の参加者 による『新庄村で感じsたことアンケート』の分析とコメントをもとに、これからの新庄村、 次世代の村民の皆さんにプラスとなるような何かを、よそ者の立場で色々と感じた ことを、村民のみなさんと忌憚なく話し、考えることで何かを見いだせればとの思いで開催することになりました。」との趣旨説明がありました。
高津運営委員より、村外の参加者による「新庄村で感じたことアンケート」と開催前に行った村民のアンケート回答の分析結果が紹介されました。
「新庄村で感じたことアンケート」
参加してどうだった?
よかった30%、非常によかった70%。
新庄村に来て印象的だった言葉、情景、生活の仕方は?その背後にある価値観は?
■朝ごはんに並んだごちそうの9 割がおかあさんの手作り(食材、お味噌など)だったこと!「ものを作る
こと、育てることは楽しいよ」とおっしゃった、
お母さんの言葉にその価値の全てがあると思います。
■宿場町を歩いていて、柿を頂きました。都会ではこうはいきません。柿を頂ける安心感が素晴らしい。
■宿泊先の御主人が畑仕事をしながら、自然を相手に楽しんでいる様子が、とても素敵でした。
■「むしろ一枚を一日で織れれば一人前」。生活の中で自らを高めていこう、という姿勢、成長を求める
気持ち、何ごとにも心を込める気持ち。
■みなさん、お話するのがお上手で芸達者な感じがしました。限りあるメンバーで時々により色々な役
割でやっていらっしゃるからでしょうか。
■民泊先の方が「歳を重ねる」ことを「大きい」と言われるのが印象的でした。
■達人の方達の物腰、表情が自然で美しい。それはこの村を本気で大切にしてこられたからでしょうか。
今後も日本の美しい村としての気品を保ちつつ、暮らしてゆかれますよう、お祈り申し上げます。
■若い人が本当に少ないと思いました。
■「メルヘンの里」というキーワードに、やや違和感を覚える。意図はわかる。でも、もっと、日本の美しい
田舎の原風景、ふるさと、桃源郷のイメージを喚起させる、美しい日本語のキーワードをもって、外に内に発信すべきと思う。
■地元の生活はやはり農業(質は高いが)と役所しかないと思われる。観光があっても、たぶん地元に
現金は落ちないと思います。メルヘンの里・新庄が栄えることが地元がうるおう唯一の道・・・。
■小さな村だからこそ、みんなで力と心を合わせた睦みが受け継がれていると思います。
■「役場の人も大変ですね」といったら、「やらされているとは思ってないよ」とすぐに返された。こんな感
覚を果たして共有できる関係がどうして築けるのか。
■ホストファミリーの温かさに感謝しています。話に花が咲き、おばあちゃんがブレンドした薬草茶、梅
干しなどを頂き、感激し、初めての人たちに、なんでこんなに親切にできるのだろうと不思議に思いま
した。都会に生まれ育った私にとって何もかも新鮮でした。
■風景がとにかく優しく、丸くあたたかい、ほっこりした感じで、感動した。山が低いので、全体が柔らか
い。空が広い。河や水の清らかさ、全てが人の心にも余裕をもたらしてくれているよう。その余裕がゆ
っくり丁寧に生活することに繋がっている。
■村の人が、「来てもらってこっちが元気をもらえる」と話される謙虚さに頭が下がる。
■村の人々の表情から伝わってくる温かさと、誰に対してもやさしい笑顔。代々とこの地に伝わる生活
の中から、生まれたものだと感じました。自分の住む地域に対する誇りの強さに、驚かされました。
◇
村民の残したいものは?
桜並木、自然、人のつながり、餅、田畑、伝統、街並み
〜呼びかけ人や運営委員からも、新庄村で感じたコメントの発表がありました〜
◇澁澤運営委員:自分の人生のなかでの新庄村との関わりを考えることです。
藤原誠太(呼びかけ人・養蜂家):
養蜂は平安時代から行われており、明治時代に西洋蜜蜂が台頭してきました。私は20年前に日本蜜蜂の会を発足しました。調べたところ、ここ新庄村は日本蜜蜂の有数の地です。水や川を上手に使われていると思います。鯉やサンショウウオなど観光にもっと使ったらどうかと思います。日本蜜蜂の嗅覚の強さを利用して「安心安全」をアピールできるのではないでしょうか。水のきれいなところ=手間をかけて利用している、コンビニがない=安心安全。これらは自慢できることです。
上野誠(呼びかけ人・国文学者):
歌をかけあう、これは気持ちの確かめ合いです。歌垣は、お金をかけず大笑いできます。これがなくなった現代社会、お金は大切だけれど、それに対してどういう尺度をもつかが大事だと思います。野ア洋光さんが作られたおじやは、それだけでは味が薄いのですが、新庄村のお漬け物を合わせて食べると、とてもバランスのいい味のおじやになるんです。皆さん、戦略的にこういった技を盗みましょう。時には美しい誤解も必要です。これがないとパワーはでない、徹底的に誤解をさせて、お互いのいいところを取りいれていきましょう。新庄村で印象に残ったのはボランティアの方々の素晴らしい動きですね、冠婚葬祭で馴れていると感じました。
黛まどか(呼びかけ人・俳人):
最も印象に残ったのは「人と人とのつながり」でした。私は日頃、旅の多い生活をしているのですが、どんなに美しい風景を見ても、美味しいものを頂いても、人で嫌な思いをすると二度と行きたいと思いません。そんなにたいした風景ではなかった、美味しいものもなかった、でもすごくいい出会いがあった場所には、また何度も行きたくなります、人はそんなものだと思います。新庄村で民泊させていただいた家のお母さんが働き者で、朝から晩まで働いて、畑仕事もし、朝から来客が多いんです。居間はすりガラスになっていてよく見えないのですが、誰かが土間に何か置いて帰ったりする。すると、お母さんは「ああ○○ちゃんだ」とわかっている。声やすりガラス越しのシルエットですぐにわかるんです。これはすごいなあと思いました。また、雪かきの話を伺いましたがが、小川に雪を降ろすとそのまま溶けるが、あんまり皆が一斉にやると川が詰まってしまうので、暗黙のうちに除々に流すことになっているそうです。そういう常に心のどこかに下流の人のことや、村の端の人のことを考えるということが、信頼関係、人と人とのつながりを築いていっているのだと思いました。
それからこういうことを言うと、一生懸命やっている人に失礼かもしれませんが、ひとつ私が気づいたことを言わせていただきます。それは、新庄村に「メルヘン」という言葉はあまり似合わないのではないかということです。旅人として、はじめてやってきた印象として「なぜメルヘンなのか?」と思いました。新庄村には出雲街道がある、新庄宿がある、なのにどうしてメルヘンになったのか伺いたい。あるいは、メルヘンを大和言葉にひらいて、日本語で表現したほうが、この村の風情に相応しいのではないかと思います。差し出がましいのですが、旅人の一感想として申し上げました。
茂木健一郎(呼びかけ人・脳科学者):
僕は先日ベルリンに行ってきました。壁が崩壊して20 年です。その時みた写真で面白かったのは、壁もはじめは低かったのです。向こう側も見えるし、ほんの冗談だったと思うのです。それがどんどん高くなり、越えると銃で撃たれて死ぬようになってしまった。これは人と人の間にできる壁と同じで、小さな差は油断しているうちに大きくなって行き来できなくなるのだと思います。都会や村、何処に住んで何をやってようと、人は人です。現在は、インターネットでどこへでも繋がることができるし、学問はネットでできます。今までのアイデアや考えではキャッチできないこともある。環境の影響はどうしたって受けますが、たった一度の人生、何処にいようと思った通り皆が自分らしく生きることでコミュニティが生まれるのだと思います。
野ア洋光(呼びかけ人・料理人):
餅米を蒸して食べてほしい。私からはこれだけです。笑って白いご飯を食べられたら幸せです。これは余裕がないと感じられないことです。料理は本当は畑から一番近い距離でするのが一番です。レストランはそれができないから、だし、調味料にこだわるんです。花鳥風月は田舎を表現しているのです。一流の田舎者として戦略的になり ましょう。この村で必要なことは何でしょう。関わり、役付き、皆が全員参加する、その価値観、これはいいことです。田舎らしい産業をして、豊かさを自慢すればいい。そしてそれを守って、維持していくことです。自信を持って!
高橋世織(呼びかけ人・国文学者・文芸評論家):
今、大学で私は理系ではなく新しい学問をつくっています。地球温暖化の問題もチャンスと捉えれば、天が地球に与えた最大の贈りものです。右肩上がりだけしかないのが近代のあり方ですが、もっと違う選択肢がたくさんあるのです。今後は色々なものがほとんど変わっていくはずです。我々は、地球からいろんなものを借りています。これを「レンタルの思想」と言っていますが、だから借りたらお返ししなきゃいけない。いろんなものを喰い尽くした20世紀は、石油の争奪戦、21世紀は水の時代です。これからは、水・空気・光・風等、見えないものに値段がつく時代、地に足がついたものが復権する時代です。Ecology,economic という言葉は、1世紀の間に生まれました。言葉の力、応答する、これは究極のメディアです。文化力でいきる、ここは街道沿い。20世紀は科学の世紀。21 世紀はまだ名付けられていない、皆さん一緒に考えましょう。
塩野米松(呼びかけ人・作家):
私が住んでいる秋田県角館は桜と武家屋敷が、有名なところです。角館町でも、お客さんにどうやってお金を落としてもらうか、町・村おこしをしています。江戸時代から残る武家屋敷があります。そこは今も人々が暮らしています。明治以降、近代化の波にのれなかったが故に、町はそのままのこり、昔のたたずまい残す町並みとそこに植えられた枝垂れ桜を見に客がくるようになりました。村起こしや町起こし、起きるのではなく出来ていくものです。人は風土のなかで育つしかないし、育ててくれるのは環境や歴史です。町や村は皆、個人の集まりです。生きたいように生きられない、我慢もしなきゃいけない、やりたくないこともやらなくてはいけない、だからこそ磨かれて意思が生れる
のです。
環境からは離れられない、時代からも抜けられない。そんな中でどうやって生きていくかは、日々、真剣に一生懸命に生きるしかないのです。今回その結果をお客さん達が来て、見て、新庄村は素晴らしいところだと言ってくれました。ここに来た人達は、皆さんが映るための鏡だったと思います。そして皆さんを見ることで、都会から来た人達は、鏡に映る自分達を見たのです。それが再発見塾のテーマです。見た後にどうするかは、これから皆さんに考えていただきたい。僕達は今回その役目の小さな鏡のかけらを持ってきました。そこに皆さんがどう映るかご覧になって下さい、という役目で来たのです。新庄村の再発見塾はこれが1 回目で、来年も再来年も皆さんのやれる範囲で、何らかの形でこの塾を続けていくなり、反省するなり、未来をのぞくなり、様々な方向で続けてくれれば、呼びかけ人としてやった甲斐があったと思います、ありがとうございました。
◇
澁澤運営委員
先ほど高橋先生から話があったように、コミュニケーションは応答だ、応答の素晴らしさだと思います。
これだけの人たちを目の前にする機会はないので、この機会にぜひこれを聞きたい、これはこう思うけれどどうか?というご意見ご質問を是非どうぞ。
質問:村民(渡辺さん)
昨日、がいせん桜通りでガイドをしました。先ほど出た「メルヘン」という言葉ですが、私も気になっていました。あの建物ができた頃、私は農協関係の仕事に従事しており、村の振興計画を昭和58年に協議した際、ある大学教授に学識経験者として指導していただきました。いろいろ検討した時に、最後に40その先生から言われたことが「メルヘンの里」という言葉でした。どういう訳かというと、毛無山のふもとにその先生ご夫婦が行かれた時に、奥さまが「ヨーロッパのメルヘンチックな風景に似ているなあ」と言われたのが発端だったと記憶しております。それで、庁舎のほとりにまず尖がった建物をつくって、その後、平成元年にふるさと創生資金の1億使って、どうするかという段階で、あの尖がり屋根の庁舎が出来たと聞いています。宿場町のガイドをしながら、役場の形を説明せざるを得ない。色々考え、国道を境に、カミとシモ、シモは古の町の名残を整えており、カミは新しい新庄の町構えを示す風景ではないかと解釈をしてガイドをしています。
黛まどか(呼びかけ人・俳人)
事前に送られてくる資料のそこここに「メルヘン」と書いてあるのですが、実際来てみたら、あの旧街道を目にして、メルヘンとはちょっと違うと思うと参加者と話しました。皆さんその感想を率直に言ってしまってよいものか悩むと言っていました。村を否定しているように伝わらないかと。でもそれも再発見塾をやっている意味の一つであると思い、言わせて頂きました。
村民(芦川さん)
私も街並みでガイドをしています。先程のように、どうしても聞かれます。役場の方は、村の杉の木をイメージしてつくったと聞いています。私は、国道を挟んで、あちらは西洋的なメルヘン、こちらは日本的なメルヘンと説明して誤魔化しています。
澁澤運営委員
ありがとうございます。変な話ですが、よそ者の使い道っていうのは、全部罪を押しつけるためによそ者はいるのです。今の話ですと、なんとなくよそ者の奥様が勝手に言ったっていうようなので、責任をすべて押しつけるのもひとつかな、と思いました。
村民(池田さん)
「メルヘン」について補足します。振興計画の時にこられた大学教授だったように思います。学者夫婦が来られて、ここはハーメルンに似ているということでメルヘンとつけました。私は、当時役場の職員だったのですが、反対し、村長に叱られました。いまだに違和感をもちますが、それがなんとか定着してきたように思います。ちなみに、1億円で塔がたったと言いましたけれども、竹下内閣時のふるさと創生資金は、財政調整基金として村に積立にしてあります。
澁澤運営委員
この話題がこんなに議論されるとは思いませんでした。せっかくだから、ほかに聞いてみたいこと、或いはこう思うのだがということがあれば、お願いします。
村民(福井さん)
現在、子育てをしていて、この年になって、すごくいろんなことを考えるようになりました。今までは、結婚して自分たちの生活だけだと思っていましたが、子どもが大きくなるにつれて「今日は○○のおじちゃんと遊んだよ」とか、ボランティアの絵本の読み聞かせから帰ってきて、こんなことがあったよ、など聞くと、自分たちだけで生きているのではなくて、地域のみなさんに育ててもらっている、そうすごく思うようになりました。ですが、私たちは新庄村にいながら、同世代のつきあいはありますが、今日来られているような違う世代の方々となかなか接点をもてない状況がまだあるんじゃないかと思います。先生方、日本全国まわっておわれるなかで、こういう取り組みで面白い取り組みがあるよ、なんていうことがあればお話を聞かせてください。
澁澤運営委員
この話題がこんなに議論されるとは思いませんでした。せっかくだから、ほかに聞いてみたいこと、或いはこう思うのだがということがあれば、お願いします。
澁澤運営委員
手前味噌で言わせて頂きますと、今年で8年目になる「森の聞き書き甲子園」というのをやっています。この20年位、正確に言えば50年位、要するに農業や山の作業が機械化されてから、一次産業や水産業の技術がものすごく落ちています。生産量は上がっているけれど、それは機械がやってくれたり薬がやってくれたりするからです。昔のお百姓さんは、全部自然相手でしたから、要するに自然のサインを見落としたらできないとか、木は、もうほとんど水ですから、水を担いで下まで下ろせないから、どうやって水を抜くか等、知識ではなく知恵が詰まったものがあったんです。これをなんとか今のうちに残したい、記録を残そうと思い聞き書き甲子園をはじめました。その時に、僕たちが聞いたんじゃ意味がないので一世代後、要するに孫の代がそれを聞いていくということをやろうと思い、高校生たちを集めました。高校生っていうのは自分の親と
も話しをしない世代です。大人と言えば、学校の先生と話さなくて、バイト先のおやじさん位としか話さない。ましてや、じいちゃんの世代なんかまったく話したことがないんです。Iターンなど、よそから入ってきた人は、ほとんど地元の方とコミュニケーションをとるほうが少ないです。はじめは、高校生100人行かせて何人がまとめてくるかなあ、20-30人かなあと言っていたのですが、100人全員がまとめてき
たんです。何でかと言うと、じいちゃんの言ってる意味が分からないのです。聞き書きというのは、相手が言うことを文字にしなきゃならないので、ここが分からないとじいちゃんに聞くんです。じいちゃんもなんとか分からせないといけないと思って喋る、そうするとコミュニケーションがどんどん取れるようになり、じいちゃんとある日手が触れ合ったとか、漬物食ってこれ美味いねとか、言葉ではなくてポンと通じることがあるんです。それで、高校生達は、はじめて違う世代と接点がもてたんです。
僕たちは、最初じいちゃん達の知恵を残したいとはじめたのですが、高校生達がどんどん変わっていくので 林野庁、文科省の役人も企業の人たちもみんな抜けられなくなり、今年が8年目、800人の高校生を送り出し、800人の森の名人ができたという活動があります。やってみて判ったことは、僕たちは知恵を残したかったのではなく、世代を繋ぎたいということでした。きちんと相手の話を聞くということ、現在の人たちは喋ることはできても聞くことは出来ない、まず聞くところからはじめようという活動を、全国で高校生だけでなく大人を含めていくつかやっています。自分の意見を書くのではなく、その通りに書き取る、それでひとつの文章として、ひとつの個人史としてまとめていく作業をやっていく。これがいくつかの地域で、2010年に「生物多様性条約第10回締約国会議」(COP10)がある関係で、特に中部地域でNGOの人たちがそれを始めました。そうしたら、すごく地域内のコミュニケーションが取れたということで、次から次へ口伝えで広がっていっています。是非、そういうような形で、じいちゃんの話を聞いて残すということから始めると、それは、一冊の文章ではなくて人間関係をつくることができると思います。昨日3 人のお年寄りの話をはじめて聞いたという方、たくさんいらっしゃると思います。やはり聞くということ、なるべく真剣に聞くということからはじめてみると世代間のコミュニケーションはとれるのかなと思います。
黛まどか(呼びかけ人・俳人)
いやな話をひとつだけ聞きました。村のお年寄りから聞いたのですが、近所の子どもが悪いことをしていたので叱ったら、その親から今後一切関わるな、と言われたというのです。昔なら叱られた側がお礼を言いに行ったものだけど、最近はどなりこんでくるから何も言えないと言います。正直、世代間に亀42裂が入り始めているのでは?とその話を聞いて思いました。是非、澁澤さんがおっしゃったように、目上の方の話を聞く、耳を貸す、そして主張するのではなく、お互いに心を開いて話を聞きあうということから始めるべきだと思います。昔、男女は、相聞といって歌を交わしあいました。自分の愛を一方的に押し付けるのではなくて、相手の安否や事情を聞いて察して、愛を交わしあっていました。愛と言うのはお互いの声に耳を傾けあい相聞くところから始まるのが日本人の文化だと思います。是非、世代間の話を聞くためにもやって頂きたいと思います。
塩野米松(呼びかけ人・作家)
僕の町、秋田県角館の話ですが、1999年に町勢要覧をつくりたいと町長に相談されたことをきっかけに、町に住んでいる24人の聞き書き集を作りました。その後、角館中学生の子ども達が3年生になると、町の選ばれた人達(魚屋さんや旅館屋さん、本屋さんのおじさんだったりします)に順番に聞き書きをしにいくことがそれ以来の授業になり、今年で6年目になります。これをやることで、今までは畳屋のおじさんと道路ですれ違ってもただすれ違っていたのに、話を聞き、それを読むことで、その方が名前をもって、歴史をもった人に変わっていくんです。それが町中の人が読めるんです。今まで僕は自分が聞きにいくのはもちろんそうなんですが、聞いてきてくれた子ども達のものを読むことで、ああ、あの人はああいう時代に戦争にいったのか、戦争に行って指をなくしたからああだったのか、というようなことがお互いに判るようになるのです。昔の村や町内では「寄り合い」などをして、お互い知っていたことなんですが、そういうのがなくなった時に間にはいってくれるのが子ども達で、間に聞き書きとして残してくれています。角館中学校の子供達にこのように言ったんです。「おじさん達は、最初出会った時に火の見櫓のてっぺんにいる小さな人影でした。下の方からおじさん何が見えますかー?と聞くと、遠くに綺麗なものが見えるよ、河がみえるよ、山がみえるよと答えてくれていました。子どもが火の見櫓の階段を上っていきます。そして最後におじさんと同じ場所に立つと、あ、本当だ、あの山だ、あの河だというのが、こんなに綺麗なところ見たことがなかったよと言えるようになります。同じ立場にたてるようになるということがとても大事なんです。階段の下から物を聞いているときには、ただ聞いているだけかもしれない。同じ火の見櫓の上に立つと、お互い感想が言い合えるになる。質問もできるようになる。共同の位置に立てるかどうかが、人と人とのコミュニケーションであり、その間に交わされる言葉がそれぞれに生きてきた生き方を互いに照らし合わせることなのです。その方法の一つが聞き書きなのですよ。」と。僕は、聞き書きという方法をいろいろなところで教えてきました。町の人たちのコミュニケーションを保つ方法のひとつとして、何か役に立てばいいと思います。
磯田地元実行委員長
お願いがあります。普段お会いできない方達ばかり、帰ったら、真庭郡の新庄村のひめのもちは美味しいと一言言ってもらえればありがたいです。
村民(足羽さん)
お礼を言いたい。私は、新庄村以外よそにあまりいったことがない井の中の蛙です。私としては、今回受け入れることができるだろうかとはじめは大変心配していました。ところが盛り上がってくると皆がひとつになって、ひとつになるとものすごい事ができるんだなと、そう一番感じました。この村は1000 人程ですし、意志の疎通もできます。なんでもできるんだなと思っています。この塾で大きな発見を頂きました。
村民(田中さん)
この村を選んで頂いてありがとうございました。お金を出してやろうとすると、すごいお金がかかるだろうと思います。この小さな新庄の村を選んで下さって、ここが第五回の日本再発見塾として日本中に宣伝がいくと、本当にありがたいです。
メルヘンという言葉がではじめて、この村の女性の方達が「なるへその会」というのを作ったことがあります。子供たちに向けて自分たちで活動するという取り組みをされているグループです。メルヘンに対抗という訳ではないですが、そのなかで自分達の良さを示していこうというグループがあったことを話させてもらいました。それから、さくら通りに電柱がなければよいと思います。
◇
澁澤運営委員
日本再発見塾やって五回目、再発見塾やって何になるのとお思いの方もいらっしゃるでしょう。せっかくご縁ができたのですから、そのご縁は水をやって肥料をやって段々大きくしてあげないと、ご縁の花は咲かないんだと思ってまして、今までに塾を開催したところで、どうやって水と肥料をやっているかという事例紹介を、福島県飯舘村の藤井さんにやって頂きます。
●藤井一彦さん(第三回開催地地元事務局)
飯舘村の紹介
飯館村は福島県東北部にあり、人が住んでいるところは標高500m位の中山間地です。人口は約6200人、夏は涼しく、冬はあまり雪が降りませんが寒く、新庄村とよく似ている村です。
までいライフ
飯舘村では「までいライフ」というのをやっています。「までい」とは東北地方の方言で、古語の「真手」が語源でもともとは「両方揃った手」という意味。それが転じて物を大切に扱う、手間暇惜しまず、じっくり丁寧になどという意味で使われています。最近では、大きく分けて二つの意味があると思っています。一つは、もったいないとか節約、今風で言えばエコ、地球温暖化防止、スローライフなどといったこと。もう一つは、心の循環、思いやり、心をこめて、といったことです。昨今、「自分さえよければ」という考えが多くなっていますが、昔の日本人は八っつあん熊さんの精神で、お互い関わりあいながら助け合いながらやっていた。そういった意味があります。
日本再発見塾in飯舘2007
飯舘村は交流人口を増やして、貧乏村をなんとかしたいという思いから、2年前(2007年)11月3日、4日に飯舘村で日本再発見塾を開催し、県内外からスタッフ含め150人が村民250人と交流しました。そこで学んだことは、村外から様々な参加者に来ていただいて、村では当たり前の「までいな暮らし」を褒めてくれたことです。自分達は貧しくて、寒くて不自由だなあと思っていたのですが、実は豊かかもしれないという気づきがありました。そして、今回の新庄もそうだと思うのですが、民泊交流の評価が非常に高かったことです。日本再発見塾をやるまでは、あれがない、これがない、という「ないものねだり」だったのですが、それを脱して、今ある中から豊かなものをもっと探してみようという声が挙がってきました。また、村民が主役になることが大事だと、日本再発見塾の事務局から口を酸っぱく言われた意味も段々わかってきました。それまでのイベントは、役場が舞台を作り村民がそこで踊るというパターンでしたが、最近は村民自身が舞台を作りはじめ、企画・運営を村民からやるようになってきました。
日本再発見塾in飯舘2008 「までい交遊塾」 (自主開催)
再発見塾の翌年(2008年)に「までい交遊塾」を自主開催し、地域の資源探し「村探検」をやりました。「ないものねだり」から「あるもの探し」への転換を図ったわけです。村内のいろいろな地域に行き、参加者と村民が村の資源を探すプログラムです。そして、発見した「までい」を報告しあい、までいの可能性を探るシンポジウムを実施したり、「までいを深める」ということで、講師や村外参加者と夜遅くまでお酒を酌み交わしながら「までい」とは何か語り合いました。このことで、言葉にするとよく解らなかった「までい」が具体的に言葉で表現できるようになってきました。「までい交遊塾」では、自分達が持っている地域の資源を活かしながら、地域づくりや交流事業ができる可能性を見いだすことができました。
今日、村民プログラムに参加してみて、飯舘村がやった2年目の「までい交遊塾」が本日の村民プログラムに当たるのだなあと思いました。皆さんは、飯舘村の2年分を今年1年でやったわけです。贅沢ですね。
日本再発見塾in飯舘2009 「農家に泊まろう!!」&「までいな休日」 (自主開催)
今年(2009年)の自主開催の塾は、夏に「農家に泊まろう!!」を、秋に2か所で「までいな休日」とい
う交流事業を行いました。飯舘村には行政区(町内会・自治会)が全部で20あるのですが、その中の3つの行政区が自主的に企画・実施しました。参加者も20人位の民泊で、非常に小さい規模です。
農家に泊まろう!!
夏に行った「農家に泊まろう!!」は、日本再発見塾のときの講師で建築家の佐川旭さんの紹介で、千葉県松戸市にあるカルチャーセンターと共同開催し、2泊3日の日程で小学生をお持ちのご家族の方にきていただきました。この地域は、日本再発見塾の時に民泊受入をした地域で、多くの協力者がおり、その方達を中心に地元で実行委員会を組織し、準備をしました。参加者は4家族11人と少なかったのですが、来年以降も継続して実施する予定です。参加者の声で特徴的なものを挙げると、千葉県松戸にお住まいの元旅行会社勤務の方は、「地元の方と触れ合うのがこんなに楽しくて大切なことだとは思わなかった。たいてい旅行に行くと、美味しいものを食べてガイドブックに載っているところをまわれるだけまわってお土産を買って帰ってくる。それと全く違う、人との触れ合いがこんなに楽しいんだ。」と言っていました。これを聞いて、ここに飯舘村の生きる道があるんだということを強く感じました。
までいな休日 佐須コース
この地域は、毎年自分達で農業祭をやっていたのですが、来場者をもっと増やして、地域の産品をもっと売りたいという思いがあり、事業に取り組んだ地域です。参加者は、地域住民とともに農業祭りの準備をしたり、きのこ狩りに行ったり、伝統芸能の太鼓に挑戦したりしました。その他に自慢の農産品品評会の審査員や農産品オークションなどにも参加してもらったことで、この地域の農産品の質の高さを知ってもらえたと思います。また、通信販売にもつなげたいということで、自分達で農産品販売用のパンフレットを作り、来場者に持って帰っていただきました。大成功だったので是非来年もやりたいと声が挙がっています。
までいな休日 小宮コース
この地域は、村の中でもIターン者が多い地区で、Iターンとタッグを組んで地域づくりを進めたいとの思いから手を挙げた地域です。テーマは「あなたの田舎をつくりませんか」。炭焼きやそば打ち、野菜収穫などの田舎体験プログラムや Iターン者から体験談を聞いたりしました。自分達ができる範囲で、自分達も楽しむプログラムにすることは大切です。運営する側が大変だとなかなか楽しめません。裏方に回ると準備が大変だと思うのですが、参加者と一緒にやるプログラムは楽で自分達も楽しめるのでお勧めです。また、普段やっていることなら無理せずやれるので、これもプログラムを作る上で大切にしました。参加者の中には空き家物件を探しに来た方もいて、村民が一人増えそうな予感です。
村実行委員会の新たな役割
村の実行委員は3年間ほぼ同じメンバーでやってきましたので、様々なノウハウを蓄積していました。こ
のノウハウを3つの行政区の企画・運営に役立ててもらおうと考え、今年は実行委員がアドバイザー的
な役割を担いました。そうしたことにより、地域に自信と誇りとやる気がでてきたように思います。
日本再発見塾を続けてきて
日本再発見塾を続けてきてわかったことは、飯舘村の「までい」は非常にオリジナリティが高いんだということです。「までい」の価値観を現在の時代に再発見したとも言えます。「までい」は日本人が大切にしてきた、他者や環境を思いやる暮らし方だったのです。それは、貧乏くさい暮らし方ではなく、もっと評価されていいのではないかということでもあります。飯舘村には都会の人が評価してくれる資源や人材がたくさんある、地域のコミュニティを大切にして助け合ってきたということは住民自身の実践力が高いことだと思います。新庄村のみなさんもそうです、素晴らしい実践力です。その様な力を発揮して色々なことに挑戦できるんだという気づきもありましたし、自分達は豊かなんだということに気付きました。
その後の村の動き
その後の村全体での動きですが、「までい」の可能性をさらなる実践にということで、下記の活動をして
います。
・「もったいない・節約する」事業としては、マイ箸、マイバッグ、マイエプロン運動や廃油でろうそくを作ってキャンドルナイトの開催、今年度進めているエコハウス整備事業(環境省が実施している全国20か所にエコハウスを建設)では全国50以上の候補の中から飯舘村の案が採用されました。1億円100%補助事業です。2009年の春には、老人ホームにチップボイラーを導入しました。石油でなく自分の村で調達できる木質チップ(おがくずの様な物)を燃料にしています。これは資源の地産地消で もあります。
・「心の循環、思いやり」事業としては、夏休みに小学4-6年生にインスタントカメラを渡し、自分が優しいと思うものを撮り、それに作文をつけてお互いに発表するという「人の優しさ見つけた事業」をやっています。
・村民債を発行して中学校のバスを買ったり、ふるさと納税でラオスに学校を作る計画も進めています。ラオスとの交流は、ふるさと納税を活用しながら自分達も豊かになる、そしてラオスの人も豊かになるということではじめました。ラオスは飯舘村よりもっと貧しいので、思いやりや助け合いの文化がたくさん残っています。そういう所の子供達とふれあって交流することで、自分達の「までい」というものを新たにつくっていこうという動きです。
・2年前の日本再発見塾で民泊の受け入れをした飯樋地区では、民泊をやったことで参加者との交流が続いています。その結果、都市との交流型の地域づくりを始めていこうということになりました。地域資源調査、民泊受け入れ体制づくりを経て、現在は村民とともに計画の構想を作っている最中です。今回、新庄村の日本再発見塾に参加して多くのことを学びました。飯舘村に帰ってもこれを活かしてがんばりたい、ともにがんばっていきましょう。自分たちのやり方で、やれる所から、やれる範囲でやっていくといいです。背伸びしすぎは長続きしません。こんなところがひとつのヒントかなあと思っています。呼びかけ人、講師、事務局の皆さんには日頃から大変お世話になっていますが、これからも応援よろしくお願いいたします。
澁澤運営委員
事例をみるより、こんな風に、是非ネットワークを使って皆でそれぞれ新しい自分達の幸せをつくっていくという前向きな形になればいいなと思い、飯舘村のご紹介をさせて頂きました。
会場にいる運営委員で地域づくりに携わっている後藤さんから、さきほどの話を含めていろんな事例とともにコメントいただきます。
後藤運営委員
せん越ながら、まちづくりの話をふたつしたいと思います。ひとつは、世代を結ぶという話ですが、先ほどの聞き書きの話は本当に素晴らしいです。今少しづついろんな地域でやっているので新庄村でも是非やって頂きたいと思います。もうひとつは、祭りですね、ここにどういう祭りがあるかよくわかっていないのですが、祭りはイベントになっていて、何人来たという集客数で評価する状況になっています。本来は、そのコミュニティの繋がりを確認する場なはずなのです。ですから、もう一度祭りを見直して、その祭りを今から先の時代に向かってつくりあげていく、生み出していく、そうすると、祭りは世代が揃っていかないと成り立たないものなので、その価値をもう一度見つめ直すということをしたらどうかと思います。
それから、もうひとつ。メルヘンの話があったのですが、あれはその時代はそれがベストだったのだろうと思います。皆さんそういう風に思って決めていっただろうし、その時はその判断で間違いなかった だろうと思うんです。これは、全国各地で同じような状況が起こっているんですね、僕が住む帯広というところでもそうです。その後、皆さんがいろんな形でどんどんまちづくりに真剣に取り組んでいった結果、実はそうではない方向性が見えてきたから、今、あの時の判断はもしかしたら違ったのかもしれないなと思う人がたくさんいるんじゃないかと思うのです。外から見るとそういう風に見える、というのが先ほどの客観的なお話で、まちづくりには、よそ者、ばか者、若者と言われるとおり、そういう客観的な視点は必要で、そのことを、是非、知ってもらえればと思います。過去は絶対に否定してはダメです、否定してしまうと学ぶことができません、あの時に決めたことと現在とは、何が違ってどこが変わったのか、それをもう一度自分達の中で考えて下さい。今やることが、10年後にもその判断でよかったかどうかわかりません。しかし、その時にそれがいいと思えば、それをしっかり受けとめ、皆で一生懸命やるというのがすごく重要なことなのです。そういう意味では、その時のこと、それからどう変わってきて、これから先どこに向かっていくのか整理する意味においても、今回の批評はすごく重要だと思います。ひとつだけやってはいけないことは、〜〜風という「風(ふう)」はつくってはいけない、元々、新庄村にある、がいせん桜通りは本物なんです、もしかしたら、新しくつくろうとしたのが「風(ふう)」なんです。いろんな地域が東京を真似して東京風にしようとしても、絶対東京にはならないということと同じなんです。昔は本物がどういうものかということが情報としても入ってこなかったので「風」でごまかせたんです。デパートもそうです、百貨店も「風」でごまかせていたから、地域の百貨店って、東京風でよかったのです。現在、それは成り立たない、同じ様なことがまちづくりでも言えます。
皆が自分で情報を取ることができ、本物を知っているので、本物なのかというのを確認をした上で自分達の地域のまちづくりを考えてください。新庄には本当にいいものがたくさんあります。それを地域の人が再発見し、しっかりと活かして欲しいというのが、まさに日本再発見塾の、呼びかけ人、運営委員、運営スタッフ、それから参加者の思いです。是非これからも積極的に新しいまちづくりを進めていっていただけたらと思います。
澁澤運営委員
先ほどから、1000人の村には1000人の幸せがという、それぞれの幸せを自分で叶えること、叶える努力をすること、家族で叶える努力をすること、集落で叶える努力をしていくこと、そしてそれができないときに行政が手助けをしてくれること、おそらくそういう形で1000人の幸せを実現していけるように、塩野先生のお話でいいますと、本当に色々な鏡がこの二日間の間に皆さまの前に立ったのかなと思います。飯舘村の話も含めて、お互いがお互いを鏡でチェックしながら、自分自身が主役で生きていき、幸せをつくっていくということが、新庄の幸せをつくっていくということに繋がるのだと思います。
総合司会者の森本二太郎さんより、「最後にとても大切な指摘をされました。否定や対立ではなく冷静に視点を持ち、熱い気持ちをもって対話を続けることが大事だと思いました。」という言葉で、二日間の幕が降されました。初めて開催された村民プログラムでしたが、新庄村民の皆さんとともに日本のこれからを、そして私たちの暮らし、幸せを考える良い機会となりました。