最上町について | 講師陣 | タイムテーブル |
当日の様子 1日目 | 当日の様子 2日目 | 参加者の感想 |
報告書(PDF/7.13MB) |
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早坂義範実行委員長が総勢200名を超える参加者を、清水(すず)の町、最上町へ暖かな山形の言葉で迎えてくださいました。また、黛まどか呼びかけ人代表が、「俳句では『水の秋』という季語がある。水が一番美しいのは秋。万葉の歌を見ても、秋の水に日本人は特別の思いを 寄せ、感受性を育んできたことがわかる。『水は方円の器に従う』という言葉があるが、水は 私たちの心のあり方を映すもの。自分自身を水に映し、今の日本を水に映す2日間にしたい。」 と開会の挨拶をしました。
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昼食は最上のお米で作られた米粉パンをいただきました。米粉パンづくりの達人栗田靖子さん より、「減反に困っている農家の方々の声をきいて、地元のお米を活用したいという思いから米粉パンづくりははじめました。米粉を使ってパンを焼くことは、単なるパンとしての旨み以 上の美味しさを秘めています。広く皆さんに食べていただくことで、元気な地域づくりにもつ ながるはず」とのこと。メニュー説明を皆で興味深くうかがいながらパンを頬張ります。もち もちとした食感が特徴で、とても美味です。
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「地元のお年寄りが語る、水と暮らしの変化」
美しい水の村に住む日本人は、どのように暮らし、どう水と親しんできたのでしょうか。
聞き書き名手・作家の塩野米松師範が、最上町のお年寄りと日本人の原風景を描きました。
<本間山田さん(65)のお話>
山田は「やまた」と読みます。山懐の田んぼのある場所に生まれたという意味で、曽祖父がつけてくれました。父親は木挽でした。山に入って木を切り倒し板に挽く仕事で、私も中学生のころから父のあとを追いかけ、見よう見まねでのこぎりの手入れをして道具を作ったり、木を伐っていました。その後、マタギになり、熊を一人で20〜30頭はとりました。獲った熊は拝んで自分達で食べ、胆嚢や皮は売りました。この地域には清水が湧く場所が6箇所ほどあり、その清水をこの土地では「すず」と呼んで日常的に利用しています。そこで野菜を洗ったりしながら井戸端会議をするのです。井戸水は14度くらいですが、清水(すず)は10〜11度くらいで冷たく、どこか甘みがあるようにも感じられます。最近は道路などの基盤整備で地下水が浸透しなくなったのか、湧き出る量が減ってきました。堺田集落では水道がまだ完備していないので、各家庭ではまだ全員が電気ポンプで地下水をくみ上げて使っています。飲み水は買ったことがありません。
<岸亨さん(77)のお話>
この地域はかつて軍馬の生産地でした。当時、軍の輸送手段として馬は非常に重要で、2歳までここで育て優秀な馬は軍に買われました。優秀な馬は1頭売ると1年で3町分の米を作る以上の収入になりました。田畑を耕すのも馬です。馬は人間以上に大事にされ、人間とまったく同じ建物の中で生活しました。建物の戸をあけるとまず馬の部屋があり、毎日、馬の顔をみて暮らしました。大人が農繁期で田畑に出ているときは、子供たちが学校から戻ってから馬のえさをやっていました。水は、昔は各家庭で掘った井戸水を使っていました。地下7メートルくらい掘ると水が出たので、そこに鉄管を埋めてポンプをつけて井戸を作りました。井戸の水は夏は冷たく冬は暖かく感じられます。洗濯や洗い物には山から引く水を使いました。飲み水を買ったことはありません。孫は学校のクラブ活動に行くとき水筒に清水(すず)を入れてもっていっています。
<山田公美さん(67)のお話>
最上町には、薬師神社の春祭、おまつり広場の盆踊り、冬のお柴灯(おさいとう)祭など、いくつか大きな祭があります。柴灯祭は毎年1月、小正月の時期に開催する、豊作を祈願する祭りで、今年で34回目です。10月末に山から切り出した杉の枝を、直径5メートル高さ7メートルの三角形に積み上げ、それを農家から寄付してもらった藁で包み、そこに薬師神社からもらった火をつけます。その火を松明(たいまつ)に灯し、下帯姿の男たちが持ち、雪の中、今年結婚式のある家庭などを走って廻り、ご祝儀やお酒を頂きます。昔は草鞋(わらじ)も履かず、裸足で走ったので、よく滑って転びました。初めて冷蔵庫を買ったのは昭和38年ごろでしょうか。天皇陛下ご成婚のときにテレビを買い、冷蔵庫が入ってきたのはそのあとです。当時は魚屋さんでは木の箱に氷を入れて冷蔵庫にしていました。飲み水を買ったことはありません。
<田中綾子さん(71)の話>食堂経営
50数年前に隣町から赤倉にお嫁にきて昭和15年に蕎麦屋を開店しました。最上特産のアスパラガスを中華麺の粉に練りこんだアスパラ麺を作ったところ、色々な新聞で取り上げられて、各地から色々な人が食べにきてくれています。子供のころは、100%白米のご飯は普段はまず食べられませんでした。「かてご飯」といって、大根を入れたご飯など、ご飯に豆や麦などを入れて増量していました。戦争中だったので、兵隊さんが小学校に駐屯しておりました。兵隊さんたちは、川の水を、石や砂、炭を入れた木の樽を通して浄化して飲んでいました。当時は冷蔵庫がなかったので、家の裏に穴を掘り、雪と、製材所からもらってきたおがくずを交互に6層くらいに重ねて保冷庫としました。7月くらいまで雪が使えました。8月ごろから夏の間は氷屋さんから氷を買ってきて冷蔵庫がわりにしました。そのころのことを思うと、今は夢の世界にいるようです。
<塩野師範のまとめ>
私は昭和22年に生まれました。中学校の同級生52人のうち半分は集団就職し、半分は高校へ行きました。東京オリンピックの翌年に大学に入り、大学の体育館の横の販売機ではじめてコカコーラを買って飲みました。30円でした。当時、お金を払って物を買うのは、とても勇気のいる贅沢な行為でした。いま私たちはガソリンよりも牛乳よりも高い値段で当たり前のように水を買うようになりました。しかし、本来、水は各家庭やその土地にあるものでした。最上町には今でも、清水(すず)の水を飲んで暮らしている人たちがいます。この2日間で、そういう暮らしがまだあることを感じてほしいのです。今日の話は、みなさんにとっては驚くことが多かったかもしれませんが、これが日本人の普通の暮らし方なのではないでしょうか。実は今の都会の暮らしのほうが特異なのかもしれません。この2日間で、私たちの、ものをみる目、ものを買う姿勢を見つめ直してみたいと思います。
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どのように流れ、どう使われているのでしょうか。7つのテーマ毎に小グループに分かれ、体験を通じて水と日本人の関係を再発見します。
イ「水と植物・生物」(訪問先:前森高原)
師範:塩野米松(作家)
達人:西塚幹夫
最上地区の農地としては最奥に位置する前森高原で、稲作・岩魚の養殖・苺のハウス栽培を行う西塚さんの農園を訪問しました。前森高原は砂礫からなる扇状地で、戦中満蒙開拓を行った人々が、帰国後何年もかけて開墾して農地にした土地とのことで、本来農業には適さないこの土地で、どのように水と付き合い、農業を営んでいるかということを学びました。
まずは高原奥地の山道を抜け、砂防ダムと水門〜水路を見学しました。水門の放水量の調整や水路に落ち葉等が詰まっていないかというチェックは、周辺農家の方々が交代で毎日行い日誌と木札を当番に回覧することで毎日漏れのないようにしているそうです。また、豪雨時には水門調整だけでは間に合わないため、普段使用しない水路に分水するそうですが、悪天候の中の作業を行うのは、時には命がけのこともあるとのこと。参加者からは、本来政府が担うべき仕事まで引き受けた上に、今の日本の農業が成立しているという驚きの声が寄せられました。
次に、岩魚の養殖場と苺のビニールハウスを見学し、釣りも体験しました。岩魚の養殖には「すず」を利用していますが、岩魚の糞等で栄養豊富になった水をポンプで汲み上げ、田んぼで再利用、糞等が田んぼに沈殿しきれいになった水を川に返しているそうです。自然との共生の上に人間の営みが成り立っているという、西塚さんの農業人としての心得を学びました。また、西塚農園では、堆肥だけではなく一部農薬を利用して自分で土を作っているとのことです。化学肥料を使用することへの批判がある一方で、「日本の皆さんの分の米を賄い、支えなければならない」という課題もあり、安全性とのバランスを常に考えながら努力しているということでした。
なお、米一俵の政府の買い取り価格は現在12,000〜13,000円で、ほとんど利益は出ないのだそうです。西塚さんの収入の多くは岩魚の養殖からであり、数年のうちに苺も市場に出せるようがんばっていると展望を聞かせてくださいました。参加者からは、農業は自然任せで行っているイメージがあったが、全く真逆で、西塚さんの農園は驚くほどきれいに整備されており、ここまで人間が手間ひまをかけて自然と付き合いながらやってい るとは思わなかったという感想が寄せられました。これに対して塩野師範より、農業は自然が相手であり、途中でやめられないということと、人間が道路だと思っているのは水にとっては 川であり、これを道として保っていくのは相当のことであるということが述べられました。
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ロ「水と文化」
師範:蜂屋宗(志野流香道21代目家元継承者)、
上野誠(奈良大学文学部教授)
地元達人:阿部邦子(あべ旅館女将)
阿部旅館の裏山、「奥の細道」山刀伐峠に続く散策道に建てられた離れ茶屋「観山亭」において、お茶会の体験をしました。この「観山亭」は、昭和34年(施工期間3年数ヶ月)に山形県出身の画人で茶人の石山太柏氏が設計・施工した茶室で、随所に300年前に使われていた部材が使われています。もしかしたら、松尾芭蕉が「奥の細道」の道中、この古材を目にしたかも知れない…と想像を巡らせながら、お点前を頂戴しました。
師範の蜂谷宗氏からは、古材の復元によって空間を演出していることについて、「人は生まれ変わっても、空間は変わらず」とのお話を伺いました。
また、阿部旅館の女将からは、「木材は使われないと朽ちていくもの。お客様の吐息(語らい)で生き続ける」と、客人を迎える茶心を伺いました。
お茶室の壁面には、前述の石山太柏氏の手による「奥の細道」全文と墨絵が描かれています。元禄2年(1689 年)、芭蕉と曽良が赤倉から尾花沢に向かう途中に越えた「山刀伐峠」の部分を、阿部旅館の女将が朗読し、師範の上野誠氏が解説をして下さいました。山刀伐峠は「高山森々として一鳥聲きかず」と記され、「奥の細道」最大の難所。芭蕉は道案内の青年から、山越えが終わった後に、「この道はいつも面倒が起きる。今日は何事もなくお送りできて良かった」と聞かされ、いつまでも胸の鼓動がおさまらなかったほど、辛い思いをした場所です。
また、お茶席では、女将手作りの豆菓子「赤倉小石(恋いし)」が振舞われました。この豆菓子は、旅館の残った食材「黒豆」を低温で1時間半揚げ、黒砂糖ときなこをまぶしたものです。地元の食材、旅館のあまり物に手を加え、まさに地産地消。食べた後にほんのり苦味が残る、心のこもったお菓子に、もてなしの想いが伝わってきました。お菓子をいただいた後にお点前を披露して下さったのは、地元スタッフ田中育子さんの令嬢・絵理加さん。自然に囲まれ、趣のある空間の中で薄茶を頂戴しました。その後、女将の案内で、亭内の小間、水屋、寄付などを見学。雪深い(積雪2m)地域特有の作りとして、蹲・躙り口が屋内に設けられていたことが、とても珍しかったです。 貴重な空間の中での茶道体験に、参加者一同、醍醐味を満喫させていただきました。
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ハ「水と農業」(訪問先:立小路)
師範:藤原誠太(養蜂家)、麻殖生素子(表装作家)
地元達人:奥山勝明 三部義道(松林寺住職)
本チームは、立小路地区で合鴨を使って完全無農薬米を生産している奥山勝明氏の田で稲刈りを体験させて頂きました。奥山氏は14年前に「夢蛍の会」を結成し、以来、「安全・安心で美味しい」お米作りを追求してきました。立小路地区の上流には分水嶺があり、奥羽山脈中の高い位置にあるため、ここから流れ出る水は最も清らかであると考えた奥山氏は、農薬を使って地域の水を汚してはいけないという信念を貫いていらっしゃいます。実際、田んぼの近くを流れる川を見せて頂きましたが、水がとてもきれいでした。
新米の収穫はもう終わっていたのですが、1.3R(7mx15m)分だけが私達の稲刈り体験のために残してありました。一株一株、鎌で刈り取り、6つかみ程を一束にして稲穂で巻いて止めるのですが、これがなかなか難しいのです。地元の方々が文字通り、手取り足取り忍耐強く指導して下さって、30人で40分掛かりで全てを刈り終えることができました。雨まじりの涼しいお天気だったのに結構、汗だくになりました。次はその束を杭がけしていきます。今回は穂先を外側にして掛けましたが、1週間から10日ほどその状態で乾かしたら、今度は向きを反対にしてワラ側を乾かすそうです。私達が刈った稲穂は来年植えるための種になるそうです。ところで、役目を果たし終わった合鴨達は大きく育ち小屋で元気そうにしていましたが、カモの管理にはなかなか気を遣うようです。まず、田植えをする日に生まれたヒナを千葉県から入手するとのことですが、これはヒナが稲より早く成長してしまうと、稲を食い尽くしてしまうからだそうです。そして稲が根を張るまでの2週間は、30度に温めた小屋で育てるそうです。その後、田んぼに入って害虫を駆除してくれるわけですが、キツネやハクビシンに襲われないように田んぼ全体にネットを張って電気を流しているそうです。
これだけ手間を掛けて作ったお米ですから美味しくない筈がありません。また栄養価が高く、七分付きで食べればビタミン等のサプリメントなどいらないそうです。化学肥料を使えば9〜10俵は収穫できるところを、8俵しか収穫できなくてもこうして拘った米作りをしている奥山さんのグループには頭が下がる思いです。その日の夜に、作っていらっしゃる「里のうた」という品種の新米を頂きました。白米だけで食べても味わい深いものでした。 稲刈りの後、田んぼから歩いて数分の民家に保存してある昔の農機具を見学させて頂きました。
最上町はもともと軍馬の産地で、かつては2千頭ほどいたそうです。戦後はこれが農耕馬となったとういうことで、馬の鞍や大八車などもありました。その他にも、雪国ならではの蓑や笠、藁沓や、回転式の田植え定規など珍しいものもありました。さて、私達のグループは、立小路にある、曹洞宗松林寺に泊めて頂きました。住職の三部義道氏は、お寺の用語や曹洞宗の作法を丁寧に教えて下さいました。食事も修業の一環です。塗りの 御膳の前に正坐し、食前・食後のお唱えをしてから頂きます。一皿一皿、(漬物にいたるまで!)お皿を持ち上げて食べるように教えられました。考えてみれば和食では当たり前の作法ではあ りますが、普段はつい省略してしまいがちなことを反省させられました。住職は、「寺は死んでから来るところではなく、生きている間に来る所だ」とのお考えで、松 林寺は地域民の交流の場になっているようです。昔から農繁期には子供を預けていたということですが、今も様々なイベントが行われ、地元民だけでなく、全国から人が集まっているそうです。交流会には夢蛍の会の皆さんをはじめ、大勢の方々にお集まり頂き、盛況でした。しかし、お寺ですから消灯は早く、本道の仏様の前で参加者30人が布団を並べて寝ました。朝は振り鈴の音とともに6時半に起床し、洗顔をして座禅を組みました。20分間だけでしたが、警策(けいさく)も受けさせて頂きました。その後、朝4時半から炊いたお粥を頂き、みんなでお掃除してお寺を後にしました。今回の再発見塾のテーマの1つに「大人の修学旅行」というのがありましたが、私達のグループはお寺に泊まらせて頂いたことで、何とも非日常的で身の引き締まる、大変貴重な経験をさせて頂きました。
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ニ「川と漁」(訪問先:小国川の川原)
地元達人:高橋忠義ら
師範:宮原育子(宮城大学事業構想学部 事業計画学科 教授)
フィールドワーク「川と漁」グループは、達人・高橋忠義氏や地元の方々の指導を受けて、小国川でカジカ釣りに挑戦しました。昔はカジカ釣りは子どもの遊びのひとつで、地元の人たちは学校から帰ると毎日のように河原で釣り糸やヤスを使ってカジカ釣りをしたそうです。塾生たちは、山懐に抱かれた小国川の河原で、せせらぎに耳を傾けながら、思い思いの場所で釣り糸を垂れました。
参加者のほとんどが川釣りは初めてで、はじめはぎこちない様子でした。しかし、達人から「カジカは大きめの石の陰や、石と石の隙間に隠れている。そこにしばらく釣り糸を垂れ、エサのにおいで寄ってくるのを待つ」とコツを伝授してもらうと、次第に一匹、また一匹と釣れるようになり、スタッフに「あと5分です!」と何度も声をかけられるまで、時間の経つのも忘れて熱中しました。
釣りの合間には、地元の方々から、カジカは夏場のほうがよく動きまわるため釣れやすいこと、夜に網を使ってとる方法もあるなど、一口にカジカを釣るといっても、季節や時期によって多彩な方法があることを教えて頂きました。小国川の河原では、ところどころ、温かな湯の湧いているところがあり、ここが温泉の町であることがわかります。場所によっては40度にもなるところもあるそうです。参加者は実際に温かな湯の湧いているところに手を触れ、赤倉の温泉が小国川を中心として湧いていることも体感しました。釣りの後は、河原で炭火を起こし、達人が釣った天然アユや、皆で釣ったカジカを塩焼きにして、その場で頂きました。さらに、最上の地酒、漬物、最上町特産のアスパラガスの一本漬け、原泉で作った出来立ての温泉卵など、地元の様々な川の恵み、山の恵みを堪能しました。
地元の方によると、カジカは今では珍味とも言え、料亭では高価な値段で供されるそうです。本来、魚は自分の手で釣り、火を起こして料理し、食べることが当たり前であったはずです。しかし、都会の暮らしでは、そうした人間として当たり前であったはずのプロセスをすべて「誰か」に任せ、お金を払って買っています。今回のフィールドワークは、最上町の川の豊かさとともに、そうした普段はなかなか気づくことのできない「当たり前だったはずのこと」について考えるきっかけを与えてくれました。
<宮原師範のお話>
一昨年から、地元の方々とともに、赤倉温泉の活性化に取り組んでいます。赤倉の町では、日常的に子どもの姿を見かけることがとても多く、また、スキー教室などが数多く開かれるなど、子どもたちの存在感がとても大きのです。その良さを活かし、赤倉を「子育て応援温泉」として、子育て中のお母さんや家族連れが気軽に来ることができる温泉の町にしたいと考えています。町づくりでは、地域の資源を上手に使い、町の人たちが今まで自分たちがやってきたことを再発見し、無理なく持続的に
取り組んでいけるようにすることを心掛けています。赤倉の町を無理に観光地化したりスタイリッシュにしたりする必要はありません。東京で暮らしている
と、ストレスの多い日常生活を当たり前と思ってしまいますが、本当の生活はそうではないはずです。私たちが人間として生きていくために本当に重要なものを取り戻すことが大切で、そ
の意味で赤倉はとても大切なものを持っている場所だと言えます。この川のせせらぎとおいしい空気を大切にし、朝、元気に挨拶を交わしてくれる子どもたちに、こうした環境が引き継が
れることを願っています。
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ホ「森と炭焼き」(訪問先:最上町境田地区山林)
師範:澁澤寿一(樹木・環境ネットワーク協会理事長)
地元達人:本間山田氏 柴崎喜美男
活動場所となった境田の山林、通称、奥羽山は宮城県境に位置します。ナラの木が群生しており、一時期のパルプ生産でナラ林の多くが姿を消したが、本間さんら地元の人々の運動で境田地区は残ったといいます。
到着すると既に本間さんら地元の達人7、8人が待ち受け、伐採から炭出しまで手順に合わせ説明・体験させてくれました。
清水(すず)をテーマにした今回の再発見塾のフィールドワークのひとつに炭焼きが入ったのは、清水の確保には保水の役目をする樹木や森が不可欠で、その森を健全に維持するには間伐など手入れが欠かせず、間伐材を活用する炭焼きは結局、森を守り、水を守ることになるとの理屈からです。澁澤さんによると、日本の多くの地域ではたいていの木が約30年で成木になるので毎年1ヶ所づつ30年かけて植林を行えば、以後は30年経った森を伐採し、その都度、あと地に植林することで末永く山林が確保できるということです。現実にこうした知恵を活かし、日本の山林は長い間、守られてきました。
余談ながら作家の司馬遼太郎氏もエッセイで「中国や朝鮮半島では気候や地表の薄さなどが原因して伐採跡に木は育ちにくい。ところが大量の燃料を必要とする鉄器文明の登場に伴い大量の木を伐採したことから山の緑が消滅、20〜30年で再生する日本の豊富な木を求め鉄器文化を持った人々が渡来した」と記しています。
そんな説明を聞きながら炭つくりの最初の段階となる伐採作業を体験しました。伐採したのは斜面の上に立つナラの木で、直径15cmほどで、本間さんによると樹齢約40年です。まず木を倒す平地側に斧で切り口を作り、次いで反対の斜面側からチェンソー、鋸で切り進み、平地に倒し、この後、枝を払い、窯に入れやすく1・5mほどの丸太にする作業が続きます。平地側に倒すのは作業を安定した場所で行うためで、仮に斜面の途中に生える木を伐採する場合は、木を横に倒すことで安定を保ちます。
伐採後は根元の切り口から出てくる新芽を育て再び成木に育てますが、全体をチェンソーで平らに切り取ると新芽が出にくいため、斧を使うことで切り口に凹凸をつけ新芽を出やすくする効用もあります。次いで薪割りは、鋸はゆっくりしたテンポで引く時に力を入れるのがコツだそうです。鑿(さく)や小槌を使った薪割りも鑿を正確に打つのは難しく、力をセーブし、右利きの場合は左手で小槌をコントロールするのがミソです。何人かが挑戦しましたが、地元の達人からは「腰のすわりが悪い」との指摘もありました。
通常、焼いた2、3日後に窯から取り出します。入り口を木で塞ぎ600度前後で焼き、余熱が残る狭い窯の中での作業だけに「やけどをするような熱さ」(本間さん)だといいます。フィールドワークでの炭出しは、火が消えてから8日ほど経った窯で行われ火の名残は全くありませんが、それでも狭い窯内にしゃがんだ窮屈な姿勢のせいか、体験者はあっという間に汗まみれになりました。
この日、取り出した炭は比較的やわらかい黒炭です。手で強く握ると細かく砕ける柔らかさで、1m強の炭を小型の鋸で30cmほどに切り揃えたり、燃え残り部分を切り捨てるなどの作業を体験しました。地元の達人によると、境田地区の炭焼きは久しく途絶えていたが昨年、経験者6,7人が中心となって復活させたのだそうです。週末に地区の特売所で販売するほか、注文に応じて出荷もしているといいます。
炭焼き体験の後には分水嶺を見学しました。小さなせせらぎですが、そこを起点に日本海側と太平洋側に水が流れてゆくのを確認できる、日本で唯一の場所です。また炭焼き体験の後、地区の公民館でクリやアケビをご馳走になりながら、地元の人とのひと時の交流をしました。境田地区は典型的な過疎の村で、現在23世帯58人です。小学生は2人に減り、分校も廃止になり本校に一本化されました。そんなわけで交流会では地元の古老から女性の学生ボランティアに「結婚してここに住んでくれると助かるんだがなー」といった冗談も飛び出し笑いに包まれました。ユーモアを交えて村の生活を語る本間さんはマタギとして山にも入り、これまでに仕留めた熊は30頭を超えます。公民館の壁には21年前に仕留めた200kmを超す熊と並んだ若き本間さんの雄姿も飾られていました。
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へ「最上の郷土料理」 (訪問先:お湯トピア)
師範:坂本廣子(料理研究家)
地元達人:五十嵐京子、長谷川冨美子、中島エリコ、野村栄子
「へ」グループには、地元の参加者2人を含む、17人が全国から集い、地元に伝わる郷土料理の調理体験・試食をしました。 坂本廣子師範を中心に、地元達人の指導を受けました。この地域では近年、「米粉パン」が定着しつつあります。地元のお米をおいしいパンに変えて販売するもので、地元の経済活性化にも一役買っています。この米粉パンの技術指導をされたひとりが坂本師範です。そして地元達人として、居酒屋蛍のおかみさんである五十嵐京子さん、最上町食生活改善推進協議会の長谷川冨美子さん、中島エリコさん、野村栄子さんがいらっしゃいました。
紅葉が始まったばかりの山里には、「みず」(うわばみそう)や、その実である「みずぼんぼ」、「とびだけ」など、豊かな山の幸があふれています。私たちのグループは3つの班に分かれ、こうした恵みを生かしたお料理、9種類を教えていただきました。これらのお料理から、水・米所である最上の良さが伝わってきました。
最初のお料理は「かいもち」です。そば粉を使ったお餅のようなそばがきです。そば粉をなめらかに練り上げるために、そば粉を入れたボールを囲んで、2,3人がチームワークよく、かきまぜました。ごまだれ、くるみだれ、納豆をつけて食べるとちょっとした軽食に! 「そば粉からこんな料理ができるんですね」。特に県外の人たちは大喜びでした。この料理を指導した達人の1人で、今年86歳の長谷川さんは、「(このお料理は)身体にもいいし、消化にもよいです。私は郷土料理を食べているから元気なんですよ」と笑顔で話しました。
五十嵐さんの「あけびあげ」も、参加者の関心を集めた料理の一つでした。実の部分を取り出したあけびに、炒めたきのこや鶏肉などを入れ、揚げたもので、山の実のほろ苦さが生かされた一品です。「あけびは身近な食材だけど、こんな風にお料理したことはないわ」と、地元出身の荒川恵美子さん。五十嵐さんはかつて旅館に勤務していた時、県外の多くのお客さんが、最上の郷土料理に舌鼓を打つ姿を見てきました。今のお店でも、地元の食材の良さを伝えたいと考えているものの、地元のお客さんには、家庭ではなかなか味わえない一味違った工夫が求められているそうです。このあけびあげも、そんな五十嵐さんの工夫を感じさせました。
みどりや旅館の食堂で行われた「大人の修学旅行/学生気分で語り合う夜」では、夜11時ごろまで語らいが続きました。みんなが打ち解けることができたのも、料理があったからこそ。地域おこし、食文化、食の安全など活発な議論が広がりました。このフィールドワークを通して、一人ひとりが何かを発見したようです。また、地元出身の伊藤千代子さんの、「ここにいるみなさんのおかげで、地元にいたら気がつかない最上のいろいろな面が発見できました」という一言は、このフィールドワークが、外部の参加者だけでなく、地元の参加者にも刺激になった、双方にとって貴重な機会であることを物語っていると思いました。
(1)みずぼんぼの天ぷら
みずの小さな実(みずぼんぼ)の天ぷら。
(2)かいもち(そばがき)
そば粉に水を加え、練ったもの。お餅のような食感です。
(3)みずの油煎り
みずの茎の部分を煎るようにして炒めたもの。爽やかな歯ざわりが楽しめます。
(4)あけびあげ
実を取り除いたあけびの皮を素揚げし、鶏肉などの具材を詰めていただくお料理。
(5)ずんだがき
茹でた枝豆をすり潰し、調味料と角切りにした柿を混ぜ合わせたもの。
(6)カラカイの煮物
エイの一種であるカラカイの乾物の煮物。山形の内陸地方に伝わるお盆、正月料理。
(7)しそ巻き
味噌など調味料を合わせたものをしそで巻き、揚げたもの。家庭によって味が異なります。
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ト「山刀伐峠と芭蕉」(訪問先:山刀伐峠)
師範:黛まどか(俳人)
地元達人:大場善男
「山刀伐峠と芭蕉」は、その名の通り、芭蕉が歩いた山刀伐峠を登り、俳句を詠むのが目的でした。引率は俳人の黛まどかさんです。まず峠のふもとで、俳句を書きとめる紙と下敷き替わりのクリアファイルを渡されました。そしてボランティアガイドの大場善男さんを紹介されました。
昔の農民の作業着のような格好で現れた大場さんは、午前中に稲刈りを済ませてきたといい、八十歳を過ぎたとは思えぬ元気さです。2007年のNHK番組「奥のほそ道を歩こう」で、この地を訪れた黛さんとは旧知の仲です。出発前、黛さんが落ち着いた声で「奥の細道」の「尿前(しとまえ)の関」を朗読し、参加者を芭蕉の時代に引き込みました。
「あるじの云ふ、『是より出羽の国に、大山を隔て、道さだかならざれば、みちしるべの人を頼みて、越ゆべき』よしを申す。『さらば』と云ひて、人を頼み侍れば、究竟の若もの、反脇指をよこたへ、樫の杖を携へて、我々が先に立ちてゆく・・・」
私たちの前を行くのは屈強の若者ではなく、大場さん。歩き始めるとすぐ、山道に入る前に清水がありました。この地ではこれを「すず」といいます。「しみず」がなまったのでしょう。
口を大きく開けると雪が入るから「しみず」ではなく「すず」になったとの説があるようです。「すず」といわれた方が冷たくて透明な感じも出てきます。
柄杓がいくつか置かれてありました。もちろん私たちの人数分はありません。この情景を思い出して参加者のひとりが詠みました。
爽やかに清水回し飲む山路かな 松下美奈子
山道にはいって入ってほどなく、左脇にふたつの石がありました。大場さんによると、芭蕉が休んだ石で「ねまる石」というのだそうです。「ねまる」は「休む」の意味の方言とのことです。確かに苔むして時代を感じさせる石でした。多くのひとが写真におさめました。が、しばらく登ってから大場さん「さっきの石はうそ。芭蕉さんは、そんなにすぐは休まななかった」と。黛さんが下を歩く人たちに向かって大きな声で「さっきのねまる石、うそだそうでーす」。大場さん、ほんとうにお茶目なおじいさんでした。
だまされてつゆ草笑うねまる石 高家章子
登る途中で雨が降ってきました。道の細さは芭蕉の時代と変わらないのでしょうが、当時とは違い、歩き易いように階段がつくられています。でも土の道ですから、雨が降れば、滑ります。何人かが滑り、そばを歩くひとが手をさしのべて助けます。芭蕉の時代もそれは同じだったのでしょう。
秋の雨芭蕉歩きし道滑り 伊奈久喜
ある参加者は道の両側に生える植物に観察の目を向けました。
山刀伐のつずらに入るや赤のまま 北村昭夫
雨のなかを30分以上あるいたでしょうか。ようやく峠の頂上に着きました。
下をみると、わずかながら色づいています。
登り来し道を眼下に薄紅葉 星野美加子
短い時間ですが、芭蕉の歩いた道を体験し、時代をさかのぼった気になりました。芭蕉は歩きながら句を詠んだのかどうかはわかりませんが、俳聖ならぬ私たちは、宿に帰り、山歩きを思い出して句を考えました。それらを並べて「奥の細道」風に再現したのが、このリポート。俳句の選者は黛さんです。
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夕食から就寝まで学生気分で語り合う夜(それぞれの宿泊先にて)
大広間でたくさんの人と語らい、眠る「大人の修学旅行」。夕食をいただきながらフィールドワークを振り返り、皆で語らったあとは温泉につかりました。